命のバトン:過去から未来への継承が途絶える時

2024年8月31日土曜日

おふたりさま

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子どもがいない夫婦の画像

私には、子どもがいません。

つまり私の代で、これまで連綿とつながってきた生命のバトンが途切れることになります。

これって、結構悲しい。

私が生まれるまでには両親、祖父母と何世代にも渡って命が受け継がれてきました。

1000年、5000年、10000年。

どれだけに遡っても、途切れる事無く、その時の両親が命のバトンを繋いでくれました。


この事実に気づいたのは、つい最近のことです。

50代に入り、もはや子どもを持つ可能性が限りなく低くなった今、ふと立ち止まって考えてみたのです。

私たち夫婦の選択が、何万年も続いてきた生命の連鎖を断ち切ることになるのだと。


はじめは重圧を感じました。


自分たちの代で終わってしまうことへの後ろめたさや、申し訳なさすら覚えたのです。

先祖たちが必死に繋いできたバトンを、私たちが落としてしまうような気がして。

でも、少し時間が経つにつれ、別の視点も見えてきました。


確かに、私たちには生物学的な子どもはいません。

でも、「命のバトン」って、本当に血のつながった子孫を残すことだけなのでしょうか?

私たち夫婦は、それぞれの仕事を通じて多くの若者たちと関わってきました。

彼らに知識や経験を伝え、時には人生相談に乗ることもありました。

そういった形で、私たちなりに次の世代にバトンを渡してきたのかもしれません。


また、私たちが社会に残す足跡も、ある意味で「命のバトン」と言えるのではないでしょうか。

私が勤める会社で携わってきたプロジェクトも、妻が地域のボランティア活動で築いてきたネットワークも、きっと私たちがいなくなった後も何らかの形で続いていくでしょう。

それは、直接的ではないにせよ、私たちの「命」の一部が未来へと受け継がれていくということなのかもしれません。

そう考えると、子どもがいないことを悲しむ必要はないのかもしれません。

むしろ、私たちには別の形で「命のバトン」を繋ぐ自由と責任があるのだと、前向きに捉えられるようになりました。


もちろん、たまに寂しさを感じることはあります。

特に、友人たちが子どもや孫の話で盛り上がっているのを聞くと、ふと寂しさがこみ上げてくることもあります。

でも、そんな時は夫婦でゆっくり話し合います。

私たちの人生の選択に間違いはなかったこと、そして私たちなりの方法で世界に貢献できていることを、お互いに確認し合うのです。

最近では、自分たちの経験を同じような立場の人々と共有することにも興味が出てきました。

子どものいない人生を選んだ(あるいは結果としてそうなった)夫婦が、どのように自分たちの存在意義を見出し、社会とつながっているのか。

そんな話を聞いてみたいし、私たち自身の経験も誰かの参考になるかもしれません。


結局のところ、「命のバトン」の本質は、単に遺伝子を引き継ぐことではなく、自分たちの生きた証を何らかの形で未来に残すことなのではないでしょうか。

それは、子育てを通じてかもしれないし、仕事を通じてかもしれない。

あるいは、芸術作品や社会貢献を通じてかもしれません。


私たち夫婦にとって、その「バトン」は、日々の仕事や地域活動、そして周りの人々との関わりの中にあります。

それは目に見えず、形もありません。

でも、確かに存在していて、誰かの心に、あるいは社会のどこかに、私たちの生きた証を刻んでいるのです。

そう考えると、私たちの「命のバトン」は決して途切れてはいないのかもしれません。

形を変え、見えない糸となって、未来へとつながっているのです。

それを信じて、これからも夫婦二人で、自分たちなりの「バトン」を大切に握り締め、前を向いて歩んでいきたいと思います。


私たちの人生に子どもはいません。

でも、私たちの人生には意味があり、そしてその意味は必ず誰かに、何かに受け継がれていくのだと信じています。

それこそが、私たち夫婦にとっての「命のバトン」なのです。

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自己紹介

松之助といいます。5歳年上の妻とおふたりさま暮らしをしているアラフィフ会社員です。 子どもがいないおふたりさま夫婦の日常や終活などを分かりやすく紹介します。

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